これまでもこれからも 思い続けているのは、オイリュトミーを深める、オイリュトミーを広めるということ。
帰国後から、この点はぶれていない。
しかし“如何に?” で、いつも悩んできた。
深めると広めるは、元の部分で同じでありながら、深めるはより個人的で内向き、広めるは社会とかかわり外向きだ。方向性は真逆で、一方に偏ると片方が希薄になる、また揺り戻し、という葛藤がいつもあった。多分これからも。その道を探りながら、まず行きたい。
深める方では、今一番興味があるのは、“オイリュトミーは何を見えるようにしているのか?”
究極のオイリュトミー、未来のオイリュトミーの在り方としての無言のオイリュトミー。聞こえる音がない。
そんな中で、何が見え、そしてそこでのオイリュトミーの存在理由は?
オイリュトミーが1912年に始まる前に、シュタイナーは、ある女性に、
「あなたは、ヨハネの黙示録が踊れますか?」と尋ねた。
何を持って踊れる?なのだろうか?
広める方では、オイリュトミーが本当に”人”とともにあることをこれまでの様々な仕事で痛感している。
人が立つことの素晴らしさ、美しさ。
うでをただ上げるだけでも、素晴らしく、美しい。
この人が人であること、私がどんなにすばらしく、美しいかということを 一人でも多くの方々と共有したい。
そしてもちろんその中から、専門的に学びたいという人がいれば、次世代のオイリュトミーの担い手も育てたい。
まず10年。
オイリュトミーのピラミッド作り。